「非・京都観光ぶらり街歩き、そして貴船の川床」  貴船? それって ド観光じゃ ありませんか!  

古地図  1. 非・京都観光ぶらり街歩き
          ~ 寺町御池から三条界隈
  京都へ、弟といっしょに墓参りに行ってきた。
  今年は祇園祭・山鉾巡行の「前祭」「後祭」、50年ぶりの復活の年だが、前祭は昨日まで、後祭は来週からという、観光テーマをまるで避けるような絶妙なタイミング。まさに、非・京都観光だ。
  ここ最近、墓参りの常宿は、ホテル ビスタプレミオ京都。(河原町通六角西入ル)  
  この宿の選定理由は特になく、新幹線とパックのホテルなだけ。

  昨夜、京都在住のいとこも交えて飲んで、今朝は二日酔い。
  でも、早く目が覚めたので、ベッド抜け出し、ホテル近辺を夢遊病者のように、ぼぉ~と散歩したレポート。



河原町

本能寺
  霧雨降る河原町通りから西へ、狭い門と路地を抜けて境内に入る。(これが後で言う土塁を横断したことになる。)
  並ぶ塔頭(たっちゅう=境内内の小院)の前を過ぎる。誰もいない境内、大きな木。本堂の前に出た。
  しばらくガラス越しに本堂の中を覗いて、やおらガラリと引き戸を開けて入る。 
中  天上から吊り下がった大きな天蓋が、まず目をひく。キンピカだ。 中は、しーんとして薄暗い。そして何より広い。
  本堂内の、凛とした空気を吸い込み、御池通りに出た。(このお寺は、計3回引っ越ししている。本能寺の変のあとに本地に来た。※1


市役所2-2  御池通りを挟んで本能寺の向かいは京都市役所。こんなに低い建物だったけかな。(写真の右の高いビルは、京都ホテルオークラ)
  あの市役所の住所は、寺町通御池上る上本能寺前町。そう、上本能寺前町。つまり、御池通りの向こう側(北側)まで、かつては本能寺の敷地だった。

  平安京造営以来の道幅狭い三条坊門小路(上記・古地図)が、江戸時代中頃に御池通と呼ばれるようになり、終戦の時に道幅が50メートルに拡張された。その御池通りが本能寺を東西に貫通し、その北側が市役所になったらしい。推測だが、今の本能寺境内に墓地は無い。市役所側にかつて墓地があったのかな?

地図00000
寺町通り (御池~三条)
  さて、ぼんやり驚きながら御池通りを背にして、寺町通りである商店街アーケードを南進してホテルの方に戻る。
  歩いてすぐの東側に、本能寺の正門が見える。
組3-1






  ふつうは、ここから入るよね。このあたりは、下本能寺前町。
  アーケードの店は、どこもまだ開店してないが、ここは本能寺の門前だ。だから歴史ある店は、寺の反対側つまりアーケード通りの西側に店を構えている。
  和菓子の亀屋良永は、天保3年(1832年)創業。古書籍の竹苞書楼は、寛延年間創業で店は江戸時代の建物。
  香、和文具の鳩居堂は、1663年に薬種商を始め、1700年代に薫香線香の製造開始だ。まったく古くないが、民族楽器のコイズミ楽器店は好きな店。
  (寺町専門店会商店街の公式サイト:http://www.teramachi-senmontenkai.jp/map/map.html


中 新  鳩居堂の角を西に入る道は、姉小路通り。(現在地図にオレンジ色で示す)
  京の通り名を覚える歌、「丸竹夷二押御池三六角蛸錦・・・」の「御池」のすぐ南の通り「姉」だ。通りは、特に色っぽくは無い。
  んなこと言ってると、今度は東側に目立たな~い地味な脇道がある。これも姉小路通り。(同じく現在地図にオレンジ色で示す)  この脇道に入って、すぐ右にコンクリート造りの公衆便所あり。(写真の右端に写ってます) 日陰者のような扱いの道です。
天性寺辻子  便所前を過ぎてさらに東に進むと、道の南側に天性寺の土塀が続いています。塀の向こうは墓地。道の北側は店と民家が続き、その先は河原町通りに出る。

  さて、このふたつの姉小路通りは、寺町通りを境にして、互いに南北にずれて寺町通りに接続している。 なぜ?


<その1:そもそも、寺町通りって何?>
  むかし、都は土塁(御土居(おどい))で囲まれて防御されていた。
  寺町通りは、都の最も東の果てを、土塁の内側に沿って南北に通る道だった。だから寺町通りより東には、つまり土塁の外には、碁盤目に走る都の道はなかった。 だから、姉小路通りは本来、寺町通りの東には存在しない。 (上記の古地図を参照ください。) 
土塁  一方、土塁は鴨川の堤防でもあった。その位置は河原町通りの西側くらいらしい。ちょうど、さっき河原町通りから本能寺境内に入る路地あたり。 つまり土塁より東は、もう鴨川の河川敷や中州であった。そうか、河原町通りはかつての河川敷の上にあるんですね。
  通り名について。都のあちこちから寺を移転させて、通りの東側で、土塁までの間の土地を寺の敷地として与えた。ので、通り名を「寺町通り」と呼んだ。(※2

<その2:天性寺辻子って何?>
  碁盤目の計画街路建設以降の中世/近世に作られた短い道を辻子という。
  地味な方の姉小路通りは、本能寺と天性寺の間の道。これを昔は、天性寺辻子といった。それを後世、西から来た姉小路通りと、通り名を一本化しちゃった。

組2-0  で、やっと天性寺に来た。天性寺前町だ。(古地図では天正寺と標記している)
  この寺の門をくぐると、境内は寺町通りより、一段低いのがわかる。(左写真。境内から寺町通りを望む)
  そう、このあたりの土地は、寺町通りから東へ、鴨川に近づくにつれて、少しずつ低くなって行くようだ。(※3
  次が矢田寺だ。
  この寺、寺だが神社でもあるようにみえる。明治維新の神仏分離がまるでなかったかのようで面白い。

三条通り
  寺町三条に出た。ここから東にちょっと行くと、新京極のアーケードへ降りて行く、たらたら坂というのがある。三条通りは、その昔、三条大橋から土塁を越えて、ここへ来る道(古地図参照)なので、少し盛り土になっていた道らしい、のが今も残っているという。だから段差があって、たらたら坂となった。じゃ、先の天性寺境内の段差は、どうなんだろうか? 
  ま、気にせず、先へ行こう。腹も減って来た。
  三条通りに、十字屋楽器三条本店(※4)がある。いまは、JEUGIAといっている。ここは、高校生の頃、私の音楽の原点だった。何も買いもしないのに、見るだけ触るだけで、どれだけ通った事か。ちょっと罪滅ぼし。夕方にもう一度きて、カポタストを買って帰った。


ホテル ビスタプレミオ京都  (河原町通六角西入ル松ヶ枝町)下  
  ホテルに着いた。
  部屋の北向きの窓から、こういう光景が見える。
  う~ん、これが観光都市・京都か! ということは、横に置いといて、手前の大きな墓地は誓願寺の墓地。そしてホテルの南に誓願寺がある。だから、このホテルは、かつての誓願寺の敷地内に建っていることになる。(上記・古地図の下辺に誓願寺がある)
  墓地の奥(写真の真ん中、少し左)の、レンガ色のビルの左右並びは、三条通りに面している店の背中だ。十字屋楽器も、これのどれかだ。アーケードの白い屋根も、少し見える。
  そして、写真その奥の三角屋根が、本能寺の本堂。つまり、この写真の光景は、上記の古地図を下から上へ向かって見ていることになる。
誓願寺  ちなみに写真右下(見えないが)に、誓願寺墓地の入り口(右写真)がある。門前に建っている石碑には、山脇東洋解剖碑所在墓地と書いてある。この墓地内に、江戸中期の医者・山脇東洋たちが解剖した遺体の供養碑があるんだそうだ。
  このあたりの店やアーケードの一歩ウラは、今もお寺と墓地。
  たらたら坂から始まる新京極通りも、JEUGIAも、このホテルも、かつての誓願寺の敷地にある。足の下も、お寺と墓場だ。
  以上、20分足らずの散歩でしたが、400年に渡る時空の旅でもありました。




  ※1  本能寺は最初、現在の下京区にあった。
  天性寺も矢田寺も妙満寺(上記・古地図の上辺に表示)も秀吉によって移転してきた。(※2を参照)
  なお、妙満寺は明治4年に寺領縮小、終戦間際に強制疎開によってさらに縮小、現在は左京区岩倉にあって大きな敷地のようだ。(1963年移転) お寺も集散を繰り返す。
図2-1
  ま、何を言いたいかと言うと、寺町通り&新京極通り沿いは、都の東端の辺境だったからこそ、寺領内の芝居小屋・見世物小屋や門前のお土産屋が栄え、その賑わいが次代に引き継がれて、店の集散を繰り返しながらも、映画館、飲食店、喫茶店、洋服、書籍、楽器などなど、時代や文化がそろう大繁華街に育った。 だが、今の街のあの様相は、いかにも悲しい。次の時代へ、何をつないで行くつもりなのか。

図1-1  ※2  寺町通り、南北に縦につながる寺院群、都を囲む土塁、そして鴨川の河原。(右の図)
  江戸初期の京都の東端を示す右図の、赤が、鴨川にかかる三条橋。縦に連なる茶色の細い線が土塁。同じく縦に連なる黄色の地帯が、多数の寺院群。黄色の地帯の西に沿って南北に走る、我が「寺町通り」。
  右図の黄色地帯うち、私が歩いたところを拡大したのが、左図。
  左図のなかで、寺の西側の白い線は、もちろん寺町通り。茶の線は、土塁を示している。
  注目は、江戸初期、三条通の北側のオレンジ色の箇所は、「町」となっていること。
  (江戸初期の京都~寛永後万治洛中絵図に見る町の構成 「京都歴史アトラス」足利健亮・編より引用させて頂きます。中央公論社 1994年発行)

  ※3  京都の街の高低差について。
  まず、大雑把な話。私が中学生のころ、四条烏丸から京都駅前まで自転車を走らせた時のこと。ペダルをこがなくても自転車は結構走りました。ゆるやかな坂なんですね、烏丸通は。
   地図検索サイトMapion(マピオン)で標高を測ってみました。四条烏丸(38m)~京都駅前(30m)の標高差は8メートル。北高南低。
   さて、天性寺境内の段差ですが、天性寺門前は標高43m。境内は42m。そのまま東進して河原町通りは41m。西高東低。
  次に、三条通のたらたら坂。坂上が42mで坂下も42m。やはり謎ですね。ましかしマピオンの正確さですが、ここまで要求されてないと思います。ただし、三条通を東進して、河原町通りで41m、木屋町や三条大橋橋詰は40mです。同じく西高東低。
   「標高を測る」についての詳細は、当ブログで掲載した記事 「ここの標高は何メートル? 住んでいる場所の「標高」を知る。」 をご覧ください。こちらからどうそ。

  ※4  京都三条と東京銀座。
  初めて知りました。愛しの十字屋楽器JEUGIAは、東京都中央区銀座3丁目にある楽器屋の(株)銀座十字屋と関係があった。
  明治28年、「第4回内国勧業博覧会」が京都で開かれ、銀座3丁目の十字屋が「洋楽器類」を多数出品。たいへん好評だったため、博覧会終了後、JEUGIAの店舗が今ある三条寺町東入ルに仮店舗をかまえて営業を開始した。これがJEUGIAの始まり。のちに独立開業。
  そういえば、鳩居堂は、東京都中央区銀座5丁目に店がある。

2. 貴船の川床
20140726153521d69_2014080318440895b.jpg   貴船の話は、こちらから、ご覧ください。

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やまなか
Posted byやまなか

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