映画「命の綱・上海」  監督:ジョアン・グロスマン、ポール・ロズディ

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かつて上海には、ナチスの迫害から逃れたユダヤ人難民が数多くいた。
このドキュメンタリー映画は、そんなユダヤ人たちが撮った映像やニュース映像をもとに、祖国に残した家族への手紙をナレーターの語りにし、また当事者のインタビューを交えて、見ごたえのある映画にしている。

時は1938年から1941年にかけて、およそ2万人のユダヤ人が上海に渡った。
彼らは、ドイツ・ユダヤ人が大多数であったが、ポーランド、ロシア、イラクのユダヤ人もいた。
当初は裕福なユダヤ人が、追って庶民階級のユダヤ人が船で渡ってきたが、ナチスが海上を支配するにつれ、シベリア鉄道でここ上海に到着する人々もいた。

当時、上海のふ頭付近は、すでに日本軍の攻撃によって破壊されていたものの、街は繫栄していた。
上海の人口は450万人、うち欧州人は5万人。つまり、上海には既に各国の白人たちが、それなりの生活をしていたらしく、ジャズが流れる店でダンスに興じる映像などが流れる。※※
一方、庶民階級の商才あるユダヤ人の中には、店を持ち商売を始める者もいた。
上海はこれら白人たちの流入によって、豊かさが増していたようだ。(しかし中国人庶民にとっては別世界であった)

中


ただ、住環境は悪く、裕福なユダヤ人とて狭いアパート、かたや、職のないユダヤ人は狭い部屋に二段ベッドだけが並ぶ中で難民生活をしていた。

しかし、1943年、1944年と時が進み、事は一変する。
ユダヤ人はゲットーに隔離され始める。日本軍が街を闊歩する。
そして、1949年、中国人民解放軍が上海に侵攻する。
だが、上海にいた難民の多くは既に、アメリカ、オーストラリア、カナダ、そして新しく建国されたイスラエル※※※へと移住していた。
ところが厳しい入国制限のため、再びヨーロッパへ戻る人々も少なくなかったらしい。

当時、上海がなぜ入国審査がない、まったくの自由港だったのかは、映画の中で解説があります。
思い返せば、1976製作の映画「さすらいの航海」というのがあった。第2次大戦前夜、ドイツからユダヤ人を乗せた客船が第2の故郷をもとめて、港を目指すのだが各地で入国を拒否される姿を描く実話の映画化。ただし船客は富裕層のユダヤ人だったのを覚えている。
※※上海へのジャズ伝搬という視点で、以前、「上海オーケストラ物語」を読んだ。その記事はコチラから。(ブログ内リンク)
※※※しかし、イスラエルでは今度はユダヤ人がパレスチナを迫害する。

予告編をご覧ください。
(外部リンク)
予告編 決め
https://www.youtube.com/watch?v=llM69LbUfq0

ちなみに、本作の音楽担当は、ジョン・ゾーン。いい仕事をしている。

下



原題:Zuflucht in Shanghai|The Port of Last Resort|
監督:ジョアン・グロスマン、ポール・ロズディ|オーストリア、アメリカ|1998年|80分|
撮影監督:ヴォルフガング・レーナー|音楽:ジョン・ゾーン
出演:フィールズ・フレッド, ヘップナー・イロ, ヘップナー・エルンスト、当時の人々

関連映画

ジャ・ジャンクー監督の映画「海上伝奇」
「魔都」「東洋のパリ」と呼ばれた、上海。
海上伝奇
(ブログ内リンク)


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やまなか
Posted byやまなか