映画「黒い神と白い悪魔」 監督:グラウベル・ローシャ

黒い神38_11133521  一握りの大地主と多数の小作人たち、20世紀初頭のブラジル東北部バイーア地方。気象変動が起これば、たちまち小作たちは困窮し、年貢を納められない小作は畑から追放される。そんな状態だったんだろう。
  大地主を守るカトリック教会。小作人のための宗教のひとつに土着化したカトリックがあった。岩だらけの地面を両膝で這ったりしてまるで五体投地、十字架を持ったチベット仏教のような。独特の荒修行もある、新興宗教ともいうべき教団の宗祖シバスティアン(写真右の人物)は黒人であった。これが「黒い神」。各地を巡礼しながら、信仰を広め多くの小作の支持を集めていた。武装組織も作り、大地主や警察や政府軍を襲撃する。これに対抗すべく、地主やカトリック神父たちは、宗祖シバスティアンを亡き者にしようと、「白い悪魔」つまり殺し屋アントニオを送った。話を承諾したものの、どこか抵抗感を持ったアントニオはつぶやく「黒い神は必ずしも悪ではない。いいところもある。彼を殺すのなら、金額をもっとはずめ」と。
  主人公マヌエロ(上の写真、岩を掲げる男)は、あることを境に黒い神に心酔しだした。妻ローサーを残し、巡礼する教団を追いかけ合流する。それを追って妻も・・・・。ただし妻は夫を追って来たのであって、宗教には関心を示さない。彼女の目には周りの信者たちが異様な者たちに映るだけ。
  荒野の丘の頂上にある洞窟に、この教団の教会があり、呪術的な祭礼、いけにえが行われていた。殺意を感じながらも十字架の前に我が乳飲み子を黒い神に差し出した主人公マヌエロは、案の定、目の前で子供を殺され、泣き伏す。それを傍で見ていた妻は、子供を刺したその剣で、黒い神を刺し殺してしまう。
  期せずしてちょうど、その時、殺し屋アントニオはこの教会を探り当て、取り巻きの多くの信者たちを銃殺し洞窟の教会に向かった。そして教会に入ったアントニオが見たものは、もう死体となった宗祖シバスティアンだった。

黒い神と白い悪魔  夫婦は、その場を逃げ、子供の亡骸を埋葬して二人だけで放浪の旅に出た。そして荒野でカンガセイロ(山賊集団)のコリスコウ大尉(→)と出会う。大尉は大地主や教会を襲撃し宝物や金銭を得ていた。そしてただ山賊としてだけではなく義賊、ある意味で黒い神の後継者たらんという意思を持っていた。これに共鳴した主人公マヌエロは、大尉の率いるこのカンガセイロに加わる。しかしここにも、殺し屋アントニオが現れるのであった。目指すはコリスコウ大尉であった。 なぜ?

  実は上映途中、私の集中力は、ここで尽きた模様・・・・。
  アントニオがなぜ大尉を狙うのか?そのわけが記憶に無い。
  周りを見ると、頭がスクリーンに向いていない人がチラホラ、いびきも聞こえる。なぜ?

  大尉が出てくるシーンから、この映画のテイストがガラッと変わる。荒野の野外劇、大尉の一人芝居を記録しました的映画になる。これが実に実に冗長なんです。30分間はある? さらには、例えば、一人芝居の大尉の後ろで、ずーっと無言で立っている家来役の役者、集中力が途絶えてる!てことが、まるわかり。これを観る観客はさらに冗長感を味わうハメになる。

  ラストは? それは観てのお楽しみ・・・・ということで、私も逃げる。よろしく!


白い悪魔065_03監督:グラウベル・ローシャ|ブラジル|1964年|118分|
原題:BLACK GOD, WHITE DEVIL/DEUS E O DIABO NA TERRA DE SOL
出演:ジェラルド・デル・レイ(主人公マヌエロ)|イオナー・マガリェイイーンス(その妻ローサー)|リーディオウ・シルヴァ(黒い神シバスティアン)|マウリシオ・ド・バーレ(白い悪魔つまり殺し屋アントニオアントニオ)

写真の右の男が「白い悪魔」(↑)
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映画ポスターは、カンガセイロ(山賊集団)のコリスコウ大尉だけを取り上げている。(→)

映画に直接関係ないが、ブードゥー教(Voodoo)は、カリブ海の島国ハイチやアメリカ南部のニューオーリンズなどで信仰されている民間信仰。下の写真の、この男はDr.Jhon、ニューオーリンズR&B界の大御所ミュージシャン。ブードゥー好き。衣装スタイルに相関ありと見た。
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ふと、思うんですが・・・映画の再評価
  ラブロマンスやサスペンスなど娯楽を主にした映画は別として、今回のような映画、その時代、その国、そんな人々、そしてそんな監督、なんていう、シリアスていうんでしょうか? 難しい映画について。

  1960年代当時、はるかなブラジルという未開発で詳細不明な国から発表された映画が、時の西欧の映画人を驚かせたらしい。
<映画チラシから、以下抜粋>
  ゴダールをして、ベルトルッチ、ストローブ=ユイレ、スコリモフスキと並び「もっとも新しい映画監督の一人」と言わしめ、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスを押しのけ、ブラジルのシネマ・ノーヴォの誕生を世界に告げた男、それがグラウベル・ローシャだった。<抜粋終わり>
  当時、1960年代特有の同時代観の中で、賞賛した西欧映画界、観客たちは、この映画からある種の興奮や空気を共感・共有したのだろう。この映画チラシも、当時の興奮の渦の中のスタンスで書かれている。それ自体は悪いわけじゃないですが。
  でも、半世紀も過ぎて少々の事じゃ驚かない現在の観客に、当時と同じ事を、1960年代特有の同時代観がない今の人に言っても、カラッキシ通じない、そう思いません?
  通じるかもしれない人々とは、1960年代を文化的・政治的に意識しながら生きた人々の一部、生まれていなかったが何かからか学んで疑似体験し共感できるようになった人々。ごく少数派だろう。この世界観だけをもって、この映画は上映されているのだろうか?
  半世紀後の今、この一連の映画を改めて上映するにあたっては、それなりの再評価が必要じゃないかと思う。
  いや、再評価があって上映に至るだ。BRICsなんていう前に、映画初公開その後この方、ブラジルを取り巻く環境は大きく変わっただろう。一方貧富の差など内在的に変わらない部分もあるのだろうと思われる。もちろんブラジルだけを取り上げて、地域限定の視野だけでああだこうだと言う必要もないだろう。再評価のファクターはいろいろある。50年近く過ぎて、新たな視点が提供できなくて、当時のことしか言えない映画なら悲しい。今となっては再評価は、上映館の仕事だと思う。上映するだけの名画座もいいけど、一観客としては期待したい。



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