映画「無言歌」  監督:ワン・ビン

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  毛沢東はソ連・スターリンの協力のもと中華人民共和国を1949年に建国。
  ソ連では、1953年スターリン死去。フルシチョフが権力を後継し、1956年にスターリン批判開始。
  中華人民共和国は建国後、数年経て党の中央政治局が権力を握りはじめ、毛による独裁体制が揺らいできた。

  1956年、毛は最高国務会議の場で「百花斉放百家争鳴」を提唱。つまり「多彩な文化を開花させ、多様な意見を論争する」要するに「共産党への批判を歓迎する」と言うことであった。しかしさすがすぐの反応は無かった。1年経った1957年に知識人が口を開き始めた。事態は徐々にエスカレートし公的な場で毛への批判、人民日報が党批判をするようになってきた。1957年5月、毛は危機を感じ「右派」批判も行えと命じる。同年6月、人民日報にて「右派分子が社会主義を攻撃している」という毛沢東の名で党が形を整えた社説が掲載される。以後、社会主義政権破壊をたくらむ、とされた「右派」が続々と釣り上げられていく。反右派闘争つまり粛清は、1976年まで続いた。この間、言論の自由は無かった。(毛沢東死去1976年)作業の帰りscree 
 
  ゴビ砂漠の周辺の地で、開墾が始まっている。各地から送られてきた「右派」のレッテルを貼られてしまった男達だ。作業中に次々と倒れていく。食事は粥の汁だけを椀に一杯。飢餓が激しく進行する。屍は埋葬されるが、吹きすさぶ風であらわになっていく。人肉(死肉)を食い生き抜く男達もいる。
  こんな収容所に夫の安否を尋ね上海から女が来た。苦労の末、夫の遺体を確認できた。
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  「右派」レッテルを貼られるまでに男達はそれぞれの物語を持っていた。学者であった者、商売をしていた者、地主だった者、あるいは昔から相性が悪くて隣人に「右派」とされた者まで様々。権力は地方の末端から中央政権層まで各レイヤーにおいて、自由自在に邪魔者を粛清できた。



  過去をドキュメンタリー映画に仕立てることはできない。自ずと劇映画になる。丹念な取材が地下の収容所の作りやら飢餓の状況を描き出している。物語上、想像されるようにほとんどセリフは無い。観客はドキュメンタリーを観ているつもりにもなって来る。映画製作においては中国からは一切の資金を受けず、香港、ベルギー、フランスからの資金で成り立っている。表現の自由の担保を取っている。だからタブーを映画化できる。

  収容者に妻が突然現れる。現代人の声を代弁しているとも解釈できるが、どうやって来たんね? また分かりやすさを狙ったのか?、妻の言動が何よりうるさい。タブー視されていたとは言え、粛清のおよその実態は広く知られていた。ま、気になるところもあるが、劇映画としての表現力を言うよりも、タブーとされてきた事実のひとつをしっかり掘り起こしたドキュメンタリー性が注目される。


監督:ワン・ビン|香港、ベルギー、フランス|2010年|109分|原題:夾辺溝 THE DITCH
原作:ヤン・シエンホイ|脚本:ワン・ビン|撮影:ルー・ション

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